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「ワインの長い歴史のほんの一部、自分たちはその通過点に過ぎないよ」-ドメーヌ・シルヴァン・ロワシェ-

「ワインの長い歴史のほんの一部、自分たちはその通過点に過ぎないよ」-ドメーヌ・シルヴァン・ロワシェ-


「それ、持ってくの?」

拾った石ころの土を払っている私に、呆れた顔でツレが言う。

「そんなもんトランクに入れといてロストしても知らないぞ。石って、元の場所に戻ろうとするって言うからな」。

少したじろぎつつ、私はハンドタオルに石を包んでいそいそとバッグにしまった。

ここは、ボワ・ド・グレション。フランス北東部はブルゴーニュ、ラドワの北端にあるぶどう畑だ。
後で聞いた話だが、「日本だと知らない人が多いけど、シャルドネで世界的に有名な特級畑が3つの村にまたがっていて、そのひとつがこのラドワ。ボワ・ド・グレションも、相当いいシャルドネを栽培してるらしいよ」と友人が言っていた。

さっきの石はここへ着く前の道すがら、舗装道が途切れてしばらく経ったところで、ふと足元に目をやったときに偶然見つけた。
白に淡いコントラストがあるその表情はチョークのようで、マシュマロのようでもある。
とにかく、なぜか少し気になって私はそれを拾い上げた。

時をさかのぼること少し前。私は友人とともにモンペリエを訪ねていた。
ヨーロッパで暮らす共通の知人を頼り、夏のひとときを南仏で過ごそうという話になったのだ。
バカンスなんて大層なものじゃないが、ちょっと贅沢な非日常への誘いに心が揺らいだのは間違いない。

幸い滞在中は晴天が続き、私たちは夏の南仏を楽しんだ。
名所を巡ることもなければ、行楽へも繰り出さない。
宿から半径100メートルくらいの範囲で完結する、我々の数日間。
正直特に何もしてないが、それでも充実した時間だった。唯一、夜のレストランだけは多少リサーチをし、奮発したことで今回のステイの積極的怠惰は無事に正当化された。

すっかり満喫し、豪華なフランス料理もそろそろ食傷気味ってほどに堪能した。
が、私にはひとつだけ心残りがあった。

フランスには数回来ているが、パリ以外の街はほぼ知らない。
そんな私が実は南仏以上に興味を持っていたのが、これまでワインを選ぶ際に嫌というほど耳にした、ブルゴーニュという地名だったワケだ。


滞在予定も終盤に差し掛かり、さんざん逡巡したのち私は意を決して友人たちに「ブルゴーニュに行ってみたい」と伝えた。

驚いた顔、しかし反応は悪くない。現地で暮らす友人は、「けっこう遠いよ?」とだけ言う。
そんなもの、願ったりだ! ずっと気になっていた場所に行けるんだから、何時間の移動だって平気だね。


そう思っていたのが今から7時間前。一転、私の心は折れる寸前だった。

風光明媚な南仏のムードはとっくに過ぎ去り、うだるような暑さの中、終わりの見えない大渋滞。全然進まないその車中に私たちはいた。



「遠い…」。

隣にいる日本から一緒に来た友人はすでに根を上げている。私は私で体力の限界が近かったが、付き合わせている手前、この友人をケアしないわけにもいかない。

「あ〜…。大丈夫? 日本に戻ったら食べたいものの話する?」

「しない」。

万策尽きた。私にもう手立ては残ってない。
助手席に座っていた現地に詳しい友人はそれを呆れた顔で見ていたが、気にせず話を始める。

「これ、到着したら完全に夜だね。ご飯探してたら間に合わないから、前に行ったことある店予約しとく。メニューリスト送っといたから食べたいもの決めて」。

カッケェ…。その手際の良さに、私たちのささくれた心はだいぶほころんだ。
午後9時ごろまで陽がある夏場のブルゴーニュだが、私たちが到着する頃にはとっくに暗くなっていた。

宿のあるジュヴレ=シャンベルタンの街も灯りはわずかだったが、予約していたおかげで遅めのディナーにありつけた。
疲労困憊の体に郷土料理のブッフ・ブルギニョンと、シャルドネの白が沁みる。牛肉の煮込みで白? いやいや、もちろんすでに赤を開けた後の一杯だ。


そして、現在。私たちは件の白ワイン、ラドワ ボワ・ド・グレションをつくった張本人、シルヴァン・ロワシェの元を訪ねている。

21歳のときに自身で創業し、わずか20年足らずで人気ワイナリーへと押し上げた人物。なるほど、相当なやり手なのだろう。


「やぁ」とフランクに出迎えてはくれたがその物腰は落ち着いていて、口数は少ない。
最初に案内された先は、地下のカーヴだった。ひんやりとした石造りの建物は、往時のフランスを感じるたたずまい。やはり石でできたスロープを下ると、そのクラシックな空間からすると異質なエレベーターと、電動の扉が見えてきた。

「外気温をシャットアウトするためには、この方がいいんだ」とシルヴァン。
ドアが開くと、しんと静まり返った暗い空間に熟成用の樽が整然と並んでいた。
石のアーチの天井は、だいぶ年季が入っている。奥へ進むとすすけた石碑が目に入った。

「シルヴァン、これは何?」。

そう尋ねると彼は「おじいちゃんがどこかから持ってきたんだ」と答える。何でも古代ローマの時代、今から2000年も前のものらしい。

シルヴァンの家はこの地で代々石材加工業を営んできた家系らしく、どうりでワイナリーのそこかしこが荘厳な石造りなわけだと妙に納得した。
そもそも私はワインのことしか頭になかったが、ブルゴーニュというのは世界的な大理石の産地なんだそうで、ロワシェ家が供給した大理石はヴェルサイユ宮殿の床にも使われているという。

シルヴァンの祖父母は家業とは別にぶどう畑を持っていて、幼い日の彼はそこが遊び場になっていたらしい。彼がワインづくりに関心を持ったのはある種必然だったのかもしれない。

実はシルヴァンは今も石材業とワイナリー、二足の草鞋を履いている。「閑散期と繁忙期がちょうど入れ替わるから両立はできてるよ」とのことだが、そりゃあさぞかし多忙なことだろう。


カーヴの電動ドアをくぐってふたたび地上へと戻る際、ふとスロープ横の作業用具置き場が目に入った。

しっかりと手入れがなされて整頓された施設の中で、そこだけは少しの生活感がある。
目に留まったのは蜘蛛の死骸だ。農業や作業用の機械が置かれた場所ではごく普通の光景だが、その死骸はまるで繭のように白化していた。

以前にもこの施設を訪れている友人いわく、死骸に白いカビが着くのはその空間に良質な酵母がいる証拠らしい。

「ワインの発酵に必要な酵母って、ぶどう自体にも元々付いてるんだよ。添加するところもあるけど、このワイナリーはぶどうの表面に付いている天然酵母だけしか使わないらしいね」。

日本語のその説明の内容はわからないはずだが、シルヴァンがこっちを向いて笑ったように見えた。
続いては醸造所だ。やはり、こちらも外観のクラシックさとは打って変わって最新式の設備が揃っている。ふと、施設の奥の方から音が漏れていることに気づいた。
空いたドアから部屋を覗くと、従業員のひとりが瓶詰めに勤しんでいる。

ハンチングを被った彼はロードムービーに出てくるブルーカラーの青年そのもので、懐かしいバンドの音楽を流して鼻歌を歌いながら、ボトルの入ったケースを運んでいる。

入り口からこっそり覗いてる僕らに気づくと、照れくさそうに笑う。
寡黙なシルヴァンとは対称的だが、のびのび働く彼の姿からは、このワイナリーの日常が垣間見られた。
ちなみに、作付面積の小さいブルゴーニュでは瓶詰めを外注するのが一般的だそうだ。
「でも、僕らは瓶詰めも出荷も全部自分でやりたくて」とシルヴァンは言う。

ひとしきり施設を見た後、私たちは醸造所横にあるテイスティングルームへと通された。
やはり、床から壁まで石でできた部屋。天高は5メートルくらいあるだろうか。

私たちがソファに座ると、シルヴァンがグラスをテーブルに置き、ボトルを傾けていた。銘柄はもちろん、ラドワ ボワ・ド・グレションだ。

遠慮もせず、私たちはその好意に甘える。昨日の車中で死にそうな顔をしてた友人も、今はイラっとするほど元気だ。何にせよ、まずは乾杯だな。


グラスを少し上げて、私が拙いフランス語で礼を言うと、シルヴァンは少しだけニコリとした。


…改めて、このワインはすごく独特な香りがする。柑橘っぽくもあり、フローラルな感じもする。口に含むとすごくフレッシュさを感じる旨さだ。

「アカシアの花のようなニュアンスやレモンのような香り、エキゾチックフルーツのようでもあったり、すごく複雑な香りが特徴だよ。熟成してくると、白トリュフのような香りもするんだ」とシルヴァン。

友人も言う。
「このワイナリーがあるコート・ド・ボーヌには他にも白ワインが色々あるけど、これは香りも味もテクスチャも、他とは全然違うんだよね」。

なるほど、テクスチャか…なんて思いつつ、ボトルを手に取る。
ラベルの下にある“MONOPOLE”の文字、これは日本語に訳すなら“単独所有”ということになるそうだ。このボワ・ド・グレションという畑が、シルヴァン・ロワシェのみのものであることが、この表記から見て取れる。

ひとしきり感心しきってボトルを戻すとき、テーブルに刻まれた年季の片鱗にふと気づいた。
テーブルだけじゃない、ソファやその他の什器に至るまで、この空間はヴィンテージやアンティークと思しきものがそこかしこに置いてある。

特に、この広い空間でかなりの面積を占有している巨大な鉄の塊は、ことさら古いものに見えるが、用途すらわからない。「あれ、何?」とシルヴァンに尋ねてみる。

「1800年代のイギリスの蒸気モーターだね。ブルゴーニュのチーズ加工工場で実際に使われてた発電機の部品で、100年くらい使われてたみたいなんだけど設備が変わることになったらしくて、僕が買い取ったんだ」。

うん…うん?

「隣のは、チェコから来た重油を汲み上げる機械。グローブっていうメーカーので、たぶん1880年代とかかな」。

今日イチ饒舌に喋るシルヴァン。しかし、何を言ってるのかまったくわからない。

戸惑う僕を見て、シルヴァンを以前から知る友人はニヤついている。
きっと、自分でも経験があるんだろう。
よくよく話を聞いてみると、こういう古いエンジンや工業機械を集めるのはシルヴァンの趣味なのだという。石材業は仕事柄、歴史ある建築や城といった場所に出向くことが多いそうで、そうした場所でも放出品が出るとシルヴァンに連絡来たりするらしい。


グラスに口をつけて気持ちを落ち着かせつつ改めて部屋を見渡すと、モーターサイクル系の看板があったり、絵画があったり、旧時代のものがそこかしこに置かれていることに気づく。

「あの絵は17世紀のオランダの画家のもの。本当は家に飾りたいんだけど、娘が『怖い』って言うからここに置いてるんだ(笑)」。

そりゃそうだ。夜中に霊とか出てきたりしそうだもんな。
でも、シルヴァンが古いものに傾倒しているのはよくわかった。

「昔のものに興味があるんだ。その探究心はもしかしたら、ワインづくりにも影響してるかもね」。

シルヴァンは振り返るような口調でそう話す。

「たとえばこのツボ、2500年以上前のものなんだけど…」

掴みの情報が強すぎるのが気になるが、とりあえず黙って聞いてみる。

「これ、当時ワインを入れるのに使われてたんじゃないかって言われててさ。当時は熟成・保管するためにローズマリーやハチミツ、香辛料とかが入れられてたみたいで、今のワインとは違ってドロッとしたものだったみたいなんだ。そういう知識とか経験が詰まってるような気がするんだよね」。

確かにそれを聞いてから改めて眺めると、ただの古びたツボが少し違って見えてくる。
古い時代へのロマンも共感するところだが、シルヴァンは別に懐古主義ということでもないらしい。

「例えばだけど、その2500年前のやり方で今つくったとして、そんなドロドロのワインはたぶん美味しくないよね(笑)。だけど、そこから何度も改善されていって、昔とは似ても似つかない今のワインがある。ワインって自分たちが新しくつくり出したものじゃなくて、今までにいろんな人たちが工夫を重ねた結果だと思うんだ」。

シルヴァンの声に強さが増す。

「100年続いたやり方でも今では通用しなかったり、逆に昔はダメだと思われてたやり方がアリになったりもする。近々で言えば1980年代、’90年代はワインの醸造テクニックがたくさん開発された時期なんだけど、今考えると百害あって一利なしみたいな方法も蔓延してたんだ。それに気づいた人たちが昔ながらのやり方を見直して、今また取り入れたりしてるよね。ナチュラルワインが増えたのも、その一端だと思うよ」。

先の天然酵母の使用だけじゃなく、シルヴァンは創業以来一貫してビオロジック栽培を取り入れてきた。それはトレンドの踏襲ではなく、かつての彼が過去から学んだ末での判断だったのだろう。


「やっぱり畑や環境をいい状態で次の世代に残したいんだ。汚染から守って、自分たちも汚すことなくきれいなまま、受け継いでいけるように。そのためにも、トラディション…伝統と現代のものは融合させていかないといけない。片方だけじゃダメ。そのバランスを上手に取ることで、新しいものが生まれるはずだから」。






古物に傾倒したシルヴァンは、そこで過去に学ぶことを知った。

「僕自身もワインの長い歴史のほんの一部。それはずっと昔から続いて来たもので、これからも続いていくもの。自分たちはその通過点に過ぎないと思ってるよ」。

きっとワインづくりを生業にする多くの人たちが、今を必死に生きている。自分だけの手法や個性を求めて四苦八苦しているのだろう。
シルヴァンにしたって、創業からの20年間を駆け抜けてきたはずだ。
それでも、ワインの悠久の時の中ではその歳月すらもほんの一瞬の出来事なのだ。

それがわかっているから彼はほとんど迷わない。
自分がやるべきことを、その意味を見失わない。

自分が重ねた工夫が、ワインの未来に近づくための一歩だと知っているから。

話し込んでいるうちに、ボトルはすっかり空になってしまった。
「せっかくだから」と、シルヴァンは私たちをぶどう畑へと連れていってくれた。

その道中で拾ったのが、バッグにしまったさっきの石だ。

「ここがうちの畑だよ」。
あたり一面には、1939年に植えられたというシャルドネが実をつけて収穫の時を待っている。


高台の丘にあるこの畑からは、天気がいいとモンブランが見渡せるのだとシルヴァンは相変わらずクールな顔で話す。

畑のそばにも、いくつかの石が転がっていた。

大理石というのは何百万年もかけて出来上がるものだと言うけれど、私が拾った石も、そんな長い間このブルゴーニュの地を見守って来たのだろうか。

シルヴァンは奥へと行って、ぶどうの様子を見ているようだ。

最初は掴みどころのないヤツだと思ったシルヴァン。
しかし、そこには彼なりの哲学と、表に出さない情熱が確かにあった。

いつの日か再訪をと誓って、私たちは彼の元を後にする。

きっとまた来れるさ。たぶん、この石が元の場所に帰ろうとするはずだから。

写真・高橋 ヨーコ/文・今野 壘

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Domaine Sylvain Loichet

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