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山形県 タケダワイナリー 「父が寄越したワインを飲んだ瞬間、山形の景色がパッと浮かんだんです」

山形県 タケダワイナリー 「父が寄越したワインを飲んだ瞬間、山形の景色がパッと浮かんだんです」

「父が寄越したワインを飲んだ瞬間、山形の景色がパッと浮かんだんです」

これは私が旅先で出会った、ある女性の話。


不意に短い暇が取れた8月のある日、私はこれ幸いと新幹線の乗車券を予約して、小さなカバンひとつで20番線へとむかう長いエスカレーターを駆け上がっていた。

なぜそこへ向かおうと思ったのかと問われれば、自分でも判然としない。
強いて言うなら、最近飲んだ『サン・スフル』なる白ワインが美味かったことと、
それを手に入れるときにお店のお姉さんがふとつぶやいた、「山形県産のデラウェア100%」という謳い文句が妙に印象的だったことくらいだろうか。

まぁ、理由なんて正直どうでも良かった。何か普段とは違う世界に出会えそうな場所に行きたかっただけ、というのが本音だ。

「山が来てくれない以上は、自分がいくより他に仕方があるまい。」と言ったのは、かつての漱石だった気がする。夏目さん、100年経った今もやっぱり山の方からは来てくれないみたいです。

当初は山形で美味い肉と地酒にでもありつければ……くらいの考えで宿すら取らず無計画に家を出たが、車窓から見える景色が移ろう中で、ふと先の白ワインがどんな所でできているのかが気になった。
確か名前はタケダワイナリー。それだけ覚えていれば、連絡先は親指ひとつですぐに調べられる時代にはなりましたよ、夏目さん。

新幹線を下車して電話をすると、幸いにもお邪魔できるとのことだった。そこからローカル線に乗り換え、タケダワイナリーに着いた頃には陽がほとんど真上に来ていた。

「こんにちは」。

その声の方に目をやると、白シャツに眼鏡をかけた小柄な女性がいた。
歳の頃は朱夏といった感じだが、その知的なたたずまいと屈託のない笑顔はどこか文学少女のそれを思わせる。
あるいは、夏の陽射しと周りに広がるぶどう畑がそう見せたのかも知れない。

女性の名前は岸平典子さん。旧姓は武田。このワイナリーの創業家系の5代目で、現社長だ。

日本のワイン醸造家、ブドウ農家という先入観とはどうにも隔たって見えるそんな人物像に興味が湧いて、自分なりのサン・スフルの感想だけ伝えると、不作法かなと思いつつ、彼女が今の立場に就いた経緯について尋ねてみる。

「本当は、私の兄が5代目になるはずだったんですよ」。

4歳離れていた兄の伸一さんは小さい頃から典子さんに妹というよりも、保護者のように接していた。立場上、早くから跡継ぎの自覚を持っていたのか、若くしてフランスで本場のワインづくりを学び、帰国した後は早々に家業に参加していた。
古株のスタッフたちと手を取り合いながらも、古い慣習には捕われずに改革をしてゆきたいという情熱を秘めていたと典子さんは振り返る。

そんな誇らしい兄は、突然亡くなった。


1999年、3月のある日。ようやく雪解けという芽生えの時期に、30代の若さで伸一さんはこの世を去った。
「心臓発作を起こしたみたいで、朝起きて来なかったんですよ。何の予兆も無かったからみんなびっくりしてましたね。父は心の内はわかりませんけど、落ち着いて見えました」。

家族であり、時期当主でもあった息子の死。その胸中が穏やかであるはずがない。それでも父の重信さんは当代として気丈に振る舞おうとしたのだろうと、面識の無い私にだって想像がつく。
しかし、まだ社内の動揺も収まらないこの時、悲痛の最中にいるはずの典子さんは父親に対して激昂することになる。きっかけは伸一さんが担当していたキュベ・ヨシコとシャトー・タケダというふたつのフラッグシップワインの存続を危ぶむ声が従業員たちから上がったことだった。
重信さんは慌てふためくスタッフたちに対して、「次は典子がつくるから大丈夫だ」と言い切ったという。


この言葉に、典子さんはキレた。


「私は兄のスペアなのか! ってカチンと来ちゃったんです。兄がいなくなっても私がいる? そういう問題じゃないだろう! って」。

きっと重信さんの言動にはスタッフの不安を払拭したいという意図があっただろうし、何なら典子さんへの期待も示せたと思っていたんじゃないかという気もするが、図らずもその言葉はひとりの人間としての典子さんの尊厳を踏みにじる結果となってしまう。
それまで兄と父とがいたことで保たれていたタケダワイナリーの均衡は、こうして突然崩れ去った。

彼女が父親の言葉をポジティブに受け止められなかったのには、もちろん理由がある。代々男性中心で切り盛りをしてきた家業特有の、性差についての無意識のバイアス。物心ついてからというもの、そこに居心地の悪さを感じながら鬱積させ続けた彼女のフラストレーションは、兄の死という特大のストレスの真っ只中にあって、父のふとした一言で堰を切ったのだ。

幼い頃から、武田家には長男優先のムードがあったと典子さんは言う。
きっとそれは男尊女卑だとかいう深刻なものと言うよりは、一昔前まではここ日本でも多くの人が何の疑問も無く持っていた男性優位な価値観から来るものだったのだろう。
しかし、幼い頃から活字と文学に触れてきて、リベラルな考え方と自分の意志を言語化する術を心得ていた典子さんが、そんな“当たり前”にずっと違和感を覚えていたのは間違いない。

「実際に私の父も7人兄弟の3番目で初めて生まれた男だったから、そこに疑問を持たなかったんでしょうね」。

家業における周囲の関心は当然兄に集中し、自分が跡を継ぐとは夢にも思わない10代の頃。それでも自身が関わることもあるかと、大学進学時には農学部を選んだ。その時は研究者にでもなれば良いかな、くらいに考えていたと彼女は言う。バルザックやらデュマやらの翻訳ものを読み漁った学生生活も終盤に差し掛かり、卒業する頃には先に留学を果たしていた兄の影響もあってか、漠然と渡仏への想いを募らせていた。

「留学にしたってお兄ちゃんファーストで。兄は普通に行かせてもらったのに、私は二番手だからうまく画策しないと行けませんでした。だから適当に父の言うことにはハイハイ言って従いながら、ワインづくりの勉強っていう名目で何とか行かせてもらって。本当は全然そんなつもり、無いのにね(笑)」。

地下へと続くワインセラー

しかし、大義名分づくりのつもりで実際に尋ねた本場の醸造の現場は、典子さんにとっては予想外に刺激的だった。

「とにかく楽しかったんですよ、フランスでのワインの勉強が。栽培も醸造も、これは一生の仕事にできるなって。父の目論見的には女性だし、1年くらい行って語学だけ学んで、ワイナリーをちょっと見たら満足するだろうと思ってたと思うんですが、結局向こうには4年いましたね」。

薄々気づいてはいたが、この人はおそらく不良なのだ。
第一印象で当たっていたのは本の虫だということくらいで、文学譲りの知性と品こそあるが言動は反体制そのものだし、
とにかく自分の意にそぐわないことに関してはどれだけ分が悪かろうと徹底抗戦する。
多分、話を聞くにつれて私の姿勢はだんだん良くなっていただろう。
「この人を怒らせたらヤバい」と私の中の何かが告げている。

典子さんは渡仏生活の大部分をフランス中央部の街、マコンにあった醸造学校に通いながら過ごしていった。彼女のお父さんの友人であり、醸造機械の輸出などをしていた人物がフランスにいて、彼が身元引受人になって色々な経験を積む現場を紹介してくれたことは思いがけない幸運だったと言う。

「父はもうなかば諦めていて、『帰ってきたらお兄ちゃんの下についてウチのことをやりなさい』と言ってましたね。投資分を返せってことなんでしょう。嫌ですとは言えないから、わかったとだけ言っておきました(笑)」。

ワインがゆっくりと熟成されていく

帰国の意思がまったく見えない典子さん。その気持ちを変えたのは、滞在4年目の1994年に重信さんから届いたひとつの小包だった。中身は、数本のワインボトル。シャトー・タケダのファーストヴィンテージだった。

彼女が渡仏した1990年に収穫された後に樽熟され、瓶詰めが終わったばかりのものができたからと、フランスの友人の元へと寄越したもの。ステイ先のスタッフたちとそれを飲んだ典子さんの脳裏に浮かんだのは、すっかり忘れかけていた故郷の情景だった。

「飲んだ瞬間、あぁ……と思いました。まだまだ荒削りだし、雨が多いところのワインだなとも感じたけど、山形の景色がパッと浮かんだんですよ。ホームシックというワケじゃないけど、望郷というか、そんな気持ちになって。これくらいのものがつくれるのなら帰っても良いかと思ったんです」。

それが果たして父の策略だったのかは定かじゃない。でも「そうかも知れませんね。意外とそういう人でした」と典子さんは笑う。“土地が見えるワインをつくる”だなんて言葉をよくワイン醸造家たちが口にしていたのは私も知っていたが、ポエティックで聞こえのいい定型フレーズだと、どこか斜に構えて聞き流していたような気がする。典子さんも以前はそうだったと言うが、それを実体験してしまったのだから、さすがの不良読書家も考え方を改めざるを得なかったようだ。

そして、4年ぶりに踏んだ山形の地。雄大な蔵王の山々は昔と変わらずそこにあったが、何だかんだフランスで醸造にのめり込んだ彼女はそんな故郷でのワインづくりにおける障害が認識できるようになっていた。

「一番は湿度です。栽培でも醸造でも、これが一番厄介でした。私が帰ってきた年は特に雨年で、醸造所でちょっとワインをこぼそうものならすぐハエが寄ってくるわ、酢酸臭はするわで、何で日本に帰ってきたんだろうと思いました。何なの、ここ! って」。

長年やっていく内に湿度の高さだとか光合成効率の悪さだとか、ハンデに思われた要素も個性や味になり得ることに気付いてきたというが、その頃はやっぱり嫌な部分ばかりが目についた。そしてこの地でのワインづくりの先人である父親も、見て覚えろという古風な職人的スタンス。それでも何とか、フランスで学んだことを生かしながら、この地でのワインづくりにも慣れてきた頃に、ワイナリーのキーマンだった伸一さんが帰らぬ人となったのだ。それまで兄がいたことで遠慮し、目をそらしてきた醸造所への疑問や不満は、ここで爆発した。

収穫されたばかりのデラウェア

「衛生管理があまりにも行き届いていないとか、仕入れのブドウを選果しないで仕込むとか、古いやり方がそのままで」。

フランスの醸造学校では、腐敗果は必ずしっかりと取り除いてから収穫するようにと教わった。それをしないで仕込むと味には雑味が増えるし、異常発酵が起きたりするからだ。

「だけど、農家さんもそれを分からずそのまま全部持ってくるし、せっかく農家さんが持ってきてくれたんだから、それは全部使うべきだって考えが根づいてたんです」。

典子さんは社長で農家と直接やり取りをしている父親を差し置いて、勝手に選果して仕込みを行った。当然、そこに気付いた重信さんはカンカンだ。「お前はうちのやり方に反抗するのか!」。怒声が響く。醸造所内の緊張感を想像しただけで胃が痛くなりそうだ。ちなみに典子さんはその時、何て……?

「はい。って(笑)」。

あぁ、やっぱりね……。

「私としては捨てる捨てないじゃなく、使えない物を取り除いてるだけ。この腐敗果、自分で食えるんですか? と。みんな『社長の言うこと、聞いてください……』って言うから私だけでやってましたね」。

そんなトップの発言をフルシカトし続けた結果。業を煮やした重信さんは何と、勝手に選果されて廃棄されるぶどうの山を典子さんの頭っからぶっかけたのだ!

「何度言っても止めないからこういうことになるんだ。帰れ! 明日から来るな!」。

おいおい豪快だなぁ、お父さん。私だったら秒で心が折れちゃうぜ?
しかし、そこは文学的武装勢力(個人)の典子さん。決して怯むことはなかった。

「ここで折れたら二度と何もできなくなると思ったから何をされようと、何を言われようと続けてやりました。それで自分のやり方で1本仕込みをしたら、やっぱりすごく美味しんですよ。だから私はそれを父が晩ご飯食べてる所に置いてやりました」。

スゴい。野生の獣だってここまで好戦的ではない気がするぞ。
しかして典子さんの思惑はまんまとハマり、彼女の仕込んだワインを口にした重信さんはすっかり黙り、以降は彼女の醸造のやり方に口を挟むことはなくなったという。

手作業で丁寧に選果作業をしている

「ざまあみろって感じでしたよ」。

うん、ここまでくると痛快だ。
ちなみに件のサン・スフルもこの典子さんが開発した銘柄で、当時は西洋品種でないため低く見られていたアメリカ原産のデラウェアを、さらには県内産のものを使って醸造してみたのも彼女のアイデアなのだそう。

「まだ父も元気に社長をやってた頃だったから、絶対止めろって言われると思って、私と同世代のスタッフをひとり巻き込んで手伝ってもらって、隠れてこっそりつくってたんです」。

罪名を挙げるとしたら、“家業内密造”あたりがいいと思う。
それでも自社ぶどうの栽培だけは伸一さんが健在だった頃から変わらない、重信さんの土俵。1920年創業のタケダワイナリーの畑には、当時すでに樹齢が50年を超えるブラッククイーンと、70年近いであろうベリーAの古木があった。重信さんのさらに先代、典子さんのお祖父さんが植えたものだそうだ。
しかし、今でこそ古木のぶどうでつくるワインにはファンが多いが、当時の日本は空前のニューワールドブーム真っ只中。世界に目を向ければ、その地域に土着した品種を見直そうという風潮が強まってきていたが、日本では古木という概念の認識も弱く、多くのぶどう農家がその土地固有の品種から人気の西洋品種へと切り替えに奔走していた。
それが今から20年くらい前のこと。それを察知した重信さんはスタッフたちにこう言った。

「畑のベリーA、全部引っこ抜いてくれ!」。

カベルネ・ソーヴィニヨンの栽培が得意だった重信さんは、畑をすべてカベルネに植え替えて、すでに人気銘柄となっていたシャトー・タケダをたくさんつくろうとしたのだ。しかし、やっぱりこの人は黙っていなかった。

マスカット・ベリーAの古木

「それを聞いて、『はぁ?』みたいな。世界的にそういう潮流になってきているのに、わざわざそんな価値がある物を抜くなんておかしい。また植え直したってそれはもう古木じゃないし、年月は買えないんだって言ったらまた怒られました」。

う〜ん、これは難しい。どちらの言い分もわかるぞ。今回ばかりは典子さんは不起訴だな。

「他にも除草剤を全廃したいとか、色々言っても『俺が社長なんだぞ!』って聞いてくれなくて。『じゃあ社長を辞めてくれって言いました』」。

有罪だった。相変わらず侵掠すること火の如しだな。そう言えば、それもタケダさんの言葉だったか。あっちは山梨だけども。
もう何度目かもわからない親子の激論。重信さんが最後に放ったのは「じゃあ辞めてやる!」という衝撃の一言。もちろんそれは、喧嘩の弾みに出た売り言葉に買い言葉。……だと思ったら違った。重信さんはそれ以来、本当に現場にでなくなったというのだ。

「それは私もびっくりしましたね(笑)」。

イタズラっぽく笑う典子さん。コワい。
ただ、代表取締役というのはふたりいても問題ないもの、典子さんが社長になるのなら、重信さんは代表取締役会長になるものだとみんな思っていたそうだ。

「スタッフも会計士さんも弁護士さんも、みんなそうでした。だけど、『典子さんの登記簿だけ繰り上げて、重信さんは会長でいいですよね?』って聞かれたら、『違う。俺は辞めるから』って言うんですよ」。

それでも方々からの説得もあり、一応、取締役という形で会社に名前だけは残した。しかし、実際にはワインづくりからも会社経営からもすっぱりとお父さんは手を引いた。それが2006年のこと。伸一さんがこの世を去って以来続いた“ぼくらの7年戦争”は、意外な形で幕を閉じた。しかし、明言こそされていないけれど重信さんの言動からは、家業を娘に託す腹積もりを徐々に固めていたようなフシも見受けられる。とりあえず意地は張るが、ぶつかる度に彼女の手腕と成長ぶりを実感して行ったんじゃないだろうか。

「どうでしょうね(笑)。ただ、父はあれで意外と苦労人だったので。よく言っていたのは『船頭はひとりだ』ってことでした。その時も古語を持ち出して、みんなに『俺が決めたことだから従ってくれ』と言ってました。彼なりの矜恃があったんでしょうね。私もあれにはすごいなと思いました」。

お父さん、なかなかにシブい去り際だ。かくして代表となった典子さん。もちろん、これがゴールではなくスタートなのは言うまでもない。「跡を継いでから、順風満帆だと感じたことなんて一度も無いです」と彼女は笑う。実際にやってみた経営の大変さは想像を超えるものだったし、従業員にちゃんと給料を支払って、いいワインをつくるだけのことがこんなに面倒なことなのかと、実感する日々だったと話す。栽培も先代以上に有機的アプローチに力を入れたのが、ちょうど気候変動が目に見えて激化してきた時期と重なっていたのも痛かった。他の地域で栽培者たちの頭を悩ませていた病気が山形でも発生するようになり、さらに悩みの種は増えるばかり。

「それでも有機的アプローチを守りながら畑の管理をして、醸造もナチュラルにしたかったんです。だけど、やればやるほど色んな課題が見えてくるし、納得できないものができてしまったりして。怒涛でしたね。もう15、16年になりますけど、本当に無我夢中でした」。

それでも、実際に彼女のつくるワインに心惹かれて、私は今日ここにいる。
偏見や旧態依然とした仕組みに抗い続けてきた彼女は、今だって理想のワインづくりを志し、それを取り巻く多くの課題や問題に果敢に立ち向かっているのだ。
彼女が語ってくれた半生は、さながら“我が闘争”と呼べそうなほどに波乱含み。だけどその先に覗くのは独裁や抑圧じゃなく、古い価値観との決別と自由だ。

「詳しい人たちにももちろん飲んでもらいたいけど、私たちのワインはそうじゃない人たちにも気楽に楽しんで欲しいと思っています。グラスをくるくる回して飲まなくてもいい、コップでガブガブやってください、って」。そう言って典子さんは笑った。

かつて、漱石の『こころ』を1冊だけ、バッグに忍ばせてフランスへと渡ったというあの日から今も、ワインづくりにまつわる典子さんの闘いは続いている。でも、その戦況が昔よりも少しだけ良くなっているのだと、彼女の表情が物語っているような気がしてならない。

ワイナリーの窓から覗いたぶどう畑では、数羽の雉が羽を休めている。
この景色も、きっとその戦果のひとつなんじゃないだろうか。


“土地が見えるワイン”。

何度も聞き流したはずのそんなフレーズが、今は妙に胸を打つ。

< 写真:谷口 京 / 文:今野 壘 >

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Takeda Winery

有限会社タケダワイナリー

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