今から200年以上も昔、
フィレンツェ郊外の大部分の土地を所有していた
大地主メディチ家。
4~5世紀続いた歴史の中で、
一部のファミリーがトスカーナを離れて
イタリアの各地に移り住みました。
そんなフィレンツェの正統なメディチ家の流れを汲む
メディチ・エルメーテ家のおはなし。

古代ローマの街道のひとつにエミリア・ロマーニャ州をつらぬく「エミリア街道」があります。歴史的、商業的に重要なこの道沿いにレミジオ・メディチが3軒のバーをオープンさせました。
1890年にはじめたバービジネスは成功し、やがて畑を購入してランブルスコの生産をはじめました。当時のランブルスコは田舎方式(メトド・アンセストラーレ)で造られていたそうです。

バーで提供されて評判をよび、やがて息子であるエルメーテ・メディチ氏によってバー以外でも販売するようになりました。地元だけの販売でしたが、販売量が年々増加。エルメーテは若くして亡くなりましたが事業を二人の息子ジョルジオとウォルターが引き継ぎました。兄弟もまた手腕を発揮し販売量が増えていきます。1960年代には輸出を開始。バーから輸出ビジネスへと発展させたエルメーテの功績を讃えて「メディチ・エルメーテ」を社名にしました。

1970年代にアメリカで一大ブームが起こり、ランブルスコはキアンティと並んでイタリアから世界に輸出が拡大した銘柄ワインの先駆けになりました。
ところが1987年に質の悪いランブルスコが市場に出回って評判を落とし、国際的に「安くて粗悪な酒」のイメージをつけてしまう結果を招きました。

1988年にワイナリーに入り、現在もオーナーである4代目のアルベルトはこの状況を打破しようと試みました。彼はランブルスコの品質向上こそイメージ払しょくの最善策だと考えました。そこでランブルスコで初めて単一畑でのブドウ栽培を開始。中でも一番良い区画(クリュ)の概念を取り入れ、大幅な収量削減と、手摘み収穫によって質の高いランブルスコを造りました。

できたランブルスコの名前は『コンチェルト』。のちにランブルスコ史上初となる最高評価『トレ・ビッキエーリ』(イタリアの名評価誌『ガンベロ・ロッソ』)を獲得することになる1本です。アルベルトは品質の高いランブルスコを造り続けたことで数々の受賞を得、ワイナリーはエミリア・ロマーニャ州の中で最も成功したランブルスコの造り手として確固たる地位を確立しました。

現在アルベルトの息子で5代目のアレッサンドロが新しい時代を担っています。
3軒のバーから始まり、家族のたゆまない努力により130周年を迎えた2020年には70か国以上への輸出をするまでに成長しました。